カトマンズとインドを繋いだ女性の人生:パールバディさんの軌跡

カトマンズとインドを繋いだ女性の人生:パールバディさんの軌跡

詳しい経緯は忘れたが2004年のスマトラ島沖大地震のときに丁度スタッフで来ていた鍼灸学校の学生がいました。彼はインドネシアあたりのNPO団体で働いていたようでそういうフットワークを活用して現地に救援物資を整理するボランティアをしていました。その現場で一人の女性と出会い私治療院に訪ねてきました。
彼女はパールバディというハンドルネームの人でした。
ネパール人の旦那と結婚していました。「ダーリンはネパール人」というブログを書いていました。
ネパールの王政が倒れる前にカトマンズに二人で渡りました。
いろいろ相談を受けていて,イラク戦争だったか,ヨルダンに住んでいた日本の女性がマスコミに安全な宿など紹介して一財産築いたという週刊誌か新聞の記事を思い出してホームページを作ることを勧めました。
スタッフはスリランカ支援のNPO団体を作って出ていったので受付をして貰う代わりにホームページの作り方を教えました。
もしかしたら内戦が始まりマスコミからコンタクトあるかもしれないと思ったのです。
平時には何が出来るだろう?とリソースを書き出してもらったらなかなかの才女でした。
大学はネパールの大学を出ていたのでヒンディー語と英語は使えていました。
・観光案内
・通訳
・翻訳
・星占い(代わりに行って観てもらい郵送で日本に送る)
等出来ますとサイトを作りSEO対策してみました。
動画をカトマンズから送ってもらい私が動画を編集して「カトマンズ・東京文化通信」というサイトを作りアップしていきました。
これはニッチ過ぎて再生数が上がらず1年くらいで終了しました。
パールバディさんは,日本のアパレル会社の目に止まりカトマンズで縫製工場の管理をし日本に送る仕事をすることになりました。
当時のカトマンズは計画停電が多くて発電機付きのマンションを購入することが出来ました。
インドではアパレル生産管理の会社を経営されていました。
3年後くらいにインドは猛暑に襲われネパールに避難しましたが体調を崩して日本に戻ってきました。
ネット記者もされていたのでネパールやインドの記事を書かれていて,その中でインド北西部プシュカルにある女子校「フィオール・ディ・ロト」を紹介されていました。
これが5年前です。
いつも日本に来たりするとフラッと連絡があり訪ねてくるのですが,今どうしているんだろうと探しても現在の消息は分かりません。
Twitterでどうも病気になり闘病しているのは分かりましたが気になり関係団体に問い合わせてみたら2年前に病気で亡くなられていたということが分かりました。
まだお若かったのに残念です。
ご冥福をお祈りいたします。
彼女が生前関わった団体で学校を卒業しても女性の働く場所がないということで働く場の一つとして縫製工場もプランにあったようです。
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