母校の 濁川小学校が一年前の今日閉校になる。

母校の 濁川小学校が一年前の今日閉校になる。

80年の歴史だそうだ。 友人が送ってくれたYouTubeのライブ放送を懐かしく見ているが、校舎も新しくなり、昔とは当たり前だが大違い。
卒業生の思い出話を聞きながら、鎮橋という橋があり、子供たちの間では人柱伝説があった。またそこに流れるオシラネップ川は 低学年までよく泳いだ。昭和40年代半ばあたりから農薬が使われるようになり、排水も流れ込むので、危ないということで遊泳禁止となった。
オシラネップ川と合流する渚滑川は 季節になるとヤツメウナギが遡上してくる。手づかみで捕まえられるほどで、朝5時に起きてかなりとって帰ってきたものだ。床屋さんの大類さんと言うおじさんに持っていくとお小遣いがもらえた。
母親が蛇嫌いだったのでいっているということで、ヤツメウナギを調理してもらえなかった。親父が調理してくれていた。
林業の街だった。
苗木を育てる会社に親父が勤めていた。
洞爺丸台風と呼ばれる台風が、北海道の道東まで荒れ狂い、木がなぎ倒されていた。 全国から営利所に応援が集まり、製材と植林が盛んにいっときなった。 多い時は、13000人ほどいたのではないだろうか。
ほんとに小さい時は、まだ仮装行列等のお祭りや小さなサーカスが来ていた記憶がある。闘犬もあった。
小学校2 3年になると、急激に人口が減って、子供たちも転校していった。 1学年2クラスが1クラスになった。
近くに山がありそこがスキー場になっていた。冬は午前中はスキー場に行くのだが、スキー板をはきながら向かう。リフトなど当時は全くないので、歩いて山に登って緩やかなところで滑って授業をする。
ほんとに苦手だったのはトイレがないので、その辺でしなければいけなかったこと。


午前中のスキーの授業が終わると、歩いて校舎に戻る。結構疲れているので 暖かい校舎でご飯を食べると、午後の授業なんてじっと時計を見て過ぎ去るのを数えていた。なんで時計は進まないのかと。
小学校5年生位まではまだまだ馬が働いていた。冬は馬橇をひいているので、そっと近寄って、家まで隠れて持っていた。でもおじさんは少し後宮しないが見るような素振りをしたので、おそらく気づいていたのではないかと思う。また馬はおしっこや馬糞をするので、雪が降るとそれが消されてよかったが、春になるとだんだん溶け出してそんなにニオイはしないんだけれども、 4月の後半になると乾燥した馬糞が空を舞う。
旭川から新任でやってきた担任はラジオが入らないので壊れたかと思ったと話していた。その頃ラジオが好きでいつかアマチュア無線をしてみたいと思っていた。確かに北海道紋別郡滝上町は電波が入らず夕方になり電離層が降りてくると、遠くからラジオの音が聞こえるようになる。
テレビも私のところはオリンピックの年に買ったと思うが、当時はNHKしか入らなかった。 しかもNHKも1時か2時か忘れたが5時位までお休みして砂嵐になっていたの思い出す。
その辺に福寿草が春になると咲いていた。うちの親父がどっかから持ってきたの庭に移していて、来年また咲くと言うことを聞いた。
その後、野原にいき福寿草を見つけて穴を掘って持ち帰った。
福寿草でいっぱいにしようと思ったがある時、堀返したら冬眠していた蛇の首が出てきてそれ以来野っぱらを掘り返すことはなくなった。

ブログに戻る